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皇室全般画像掲示板
平成の終わり、あれほど前のめりに「眞子さま小室と婚約内定」の裁可を明仁天皇に出させたビチ子様・・・ 草加オワダニと「良き協力関係」のもと、「皇位強奪に邪魔な」秋篠宮家を退けるために最低出自の草加チョー○○人小室使って「眞子さまを巻き込むニセ婚」計画をビチ子様の強力なバックアップのもと、草加による「眞子さまを皇室から排除する」という策略が実行された。小室圭に対する国民の非難の嵐が起こったのはビチ子様と草加にとっては想定外の事だったに違いない。 小室の扱いに苦慮したビチ子様と草加はビチ子様の親友であるというヒラリークリントンの力を借りて小室を無理やり米国フォーダム大學へ非難させる。小室と眞子さま(ニセ)の結婚への道が暗礁に乗り上げた形となった。 ビチ子様と草加オワダニの強い協力関係がギクシャクしはじめたのはこのあたりだったようだ。草加工作員ブログがこぞってビチ子様への非難を始める。「皿婆は眞子さま(ニセ)に会ってもくれず、結婚への道を邪魔している」と言う非難だ。
思うにビチ子様は、草加とともに計画したこのニセ婚騒動への国民の非難の声のあまりの大きさに恐れをなしたのではないだろうか。このまま国民の非難の声が更に大きくなれば、自分はこの「国家反逆罪級」ともいえるニセ婚計画の共犯者となってしまう・・・と怖気付いたのではないだろうか。明仁を生前退位させることにも成功したことだし、これ以上草加に関わっていては自分の身が危ない・・という考えがビチ子様の脳裏をよぎったのだろうか。
徳仁を強行即位させたと同時くらいから草加のビチ子様徹底批判が目に付くようになった。 やれ「皇居宮殿の明け渡しに応じない皿婆」とかやれ「引っ越ししたくないけど雅子さんとは離れて暮らしたいと皿婆の主張」とかビチ子様が令和になっても皇居を占拠して動かないと草加から散々叩かれるようになった。ビチ子様への罵詈雑言といっていいほどの草加の急激な塩対応にはなにがあったのか。宮殿明け渡しを渋ってるようなビチ子様の様子は確かに伝わってきた。そこには上皇夫妻には宮殿を出て行ってもらうつもりで、すでに、宮殿に入り込もうと待機していた「自称準皇族」オワダ恒夫婦の姿があったのかもしれない。 それを知ったビチ子様は「オワダニに宮殿を乗っ取られてしまい、皇室がオワダニの実質支配下に」との危機感を持ったのではないだろうか。
徳仁の強引な即位を実現させたビチ子様と草加(オワダニ)だが、そこから急速にその関係が悪化したのはなぜなのか。徳仁即位という両者共通の目的がとにかくも実現したが明仁上皇とビチ子上皇后の下に徳仁天皇、雅子下皇后wという位置付けになり上皇夫妻は天皇時代と同じ職員数を抱え、それまでの東宮御所を改築し仙頭御所として上皇夫妻が住むことになった。さらに内廷費も平成と同じく一本化されていて、上皇夫妻から徳雅両屁以下に配分されることになったらしい。実質的2重権威構造の発足だった。マタ子様と草加(オワダニ)がこれに不満を持ったのは容易に想像できる。上皇夫妻を追出し当然内廷費は自分ら(草加)が管理できると思ったのではないか。そうなれば、もう皇室は自分ら(草加)の天下・・・と。
明仁天皇を生前退位させ、徳仁の強引とも見える即位はビチ子様と草加の「共同作業」・・・のようにみえた。両者の強い目的が果たされた後・・・残るは皇室から得るカネの行方とキムコム使った「ニセ婚」の行方だったのではないだろうか。キム小室などに眞子さまが引っかかるわけもなかった。だから、草加はニセ眞子を用意し、最低スペックのキム小室とのニセ婚に突き進むしかなかった。キム小室に対する国民からの凄まじい反発にもめげず国民感情に恐れをなしたのであろうビチ子様の逡巡を押し切って草加は「ニセ婚」を成立させ、キム小室とニセ眞子は結婚し(た設定で)NYへ旅立った。